漫画家の水木しげるさん
ニューブリテン島で従軍していた水木しげるさんが、11月30日にお亡くなりになりました。
http://www.mizukipro.com/2015/12/post-1342.html
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深田弘子さんの名で「夫が2月に永眠した」旨の葉書が届いた。10月の日付である。亡くなられてから随分経ているところをみると、恐らく年賀状などで通知漏れを探しておられたのだろうと推測している。
彼は、私と同じく戦跡慰霊の旅に二回参加されている。彼は尺八の技術を持っておられたようで、二回とも尺八を持参し、要所で吹奏しておられた。
あとで知ったことであるが、彼は、戦闘中重傷を負ったため、ラバウルまでの転進にあたって部隊に同行出来なかった。転進中の苦労は既報の通りであるが、重傷を負った体でありながらわれわれ同様、ジャングルを歩き、数十もの大小河川を渡った筈である。
どうやって渡ったのか戦友会の席上何人かが問うたが、彼は一切口を割らなかった。その意図は最後まで謎で終った。
転進を開始する直前に見た痛ましい彼の痛々しい体、大方が彼のことが忘れられた折、部隊の駐留地に突然姿を現した彼、慰霊の旅で尺八を吹奏した後に見せた「はにかんだ顔」・・・。
思い出は尽きない。
軍隊における上官、部下みな戦友である。いざ戦場に赴けば、何時戦傷を負い、命を落としても戦友は互いに助けあい励まし合って敵と対峙する。よほどの重傷でもなければ戦列を離れることはない。
かつて、われわれがツルブ、マーカスの戦闘中、そこを引き払ってラバウルに集結せよとの第八方面軍司令部からの命を受け、苦闘の転進を開始したことは既報の通りである。大河畔の大木を3日かけて切り倒し、それを橋にして渡ったことも数回。その間の戦友同士の生命をかけた連携プレイたるや、今想起しても感涙に咽ぶ思いである。河口を渡る時は、数人で手を取り合い、一人が転倒しても差しさわりがないように協力しあった。
精のありたけを出し尽くして息絶えたであろう兵、疲労の末集団から離脱したのか、銃を杖がわりに一人で歩く兵など、助ける術もないわれわれは、はやる心を抑えて無視するほかなかった。元気なうちにラバウルに辿り着かねばなららい義務があったからである。在ラバウルの司令部ではわれわれの戦力を心待ちにしているからである。
マーカス岬を出発してから2ヶ月余。兵団主力のあるトーマに着いたわれわれを、出迎えの戦友達はぼろぼろドロンコ衣装のわれわれを抱き合って迎えてくれた。
我々は当然ながら、迎えに来てくれた戦友達も互いにボロボロと感涙にむせんだ。
戦闘中負傷し、途中落伍して単独で転進を余儀なくされたF君。無事復員を果たし、戦没者慰霊の旅に二度とも参加された。慰霊中、所持してきた尺八を吹奏した姿は、仏様にお会いしたような思いがしたものである。今どうしておられるだろうか。
私ら夫婦の結婚当時は、終戦直後のこともあり食料難時代。都会のサラリーマン家庭では食料の入手も侭ならず、恥も外聞もかなぐり捨てて近隣農家へ米の買出しに出かけた。当時の汽車は、買出しの男女で溢れ返り、貨物列車まで満員の有様。お米の価格は「半ば公然」のヤミ値である。お上(かみ)であろうとも空腹と生命には代えられず、ヤミは公然と行われており、お巡りさんも人間、大方は見逃してくれた。然し、上司からの指示で「ヤミ列車」取り締まりがあった時の混乱ぶりは目を覆うものがあった。列車に乗っていた者は、腹いせにわざと線路上にお米をばら撒いて逃げるなど、その惨状たるや想像以上のものがあった。
ある日、突然勤務中に上司に呼ばれ、「俺の姪にこんなのがいるがどうだ」と縁談の話を聞かされた。親戚の農家の長女だという。
帰宅して母に話した。その頃、母は体調を崩していたせいもあり、私も年頃。勤め先の上司からのお話なら一度会ってみたらということになった。
話がどんどん進み・・・遂に一組の夫婦が成立した。
ある大晦日、妻の実家から「正月餅をついたからとりにこい」との有り難い連絡。当時はバスもないため遥々自転車でお伺いをした。お餅はとみると、なんと、のしたままで十数枚。自転車の荷台に括り付けてお礼もそこそこに田舎道を出発した。後ろが重いので田舎道を苦労して帰宅した。未だ柔らかいお餅を家族一同で交代で切り、箱に詰め終った時には既に12時をまわっていた。
今ではスーパーでも正月品一式を売っている時代。
道路も整備されていなかった往時を思い出すたびに「正月餅」のことが偲ばれる。
どんな生物でも、自分の身を「恐怖心」で守るという本能がある。庭にいる蟻や蜘蛛の類でも、危険を感じれば素早く逃げて身を隠す。一方で猛獣は、餌を獲得したり仔を守るためには周囲の動物や敵などに猛然と襲いかかるが、それ以外は無闇に攻撃したりしないという。
嘗て県職員の頃、台風の水害が各地で起こり、3名でその被害調査に行くよう命じられた。どの川も橋は流され、水嵩が増し、溢れんばかりの急流である。目的地の近くの川にさしかかったが、橋は流されていて既にない。直径50センチほどの水道用の土管が架かっており、これを渡らなければ目的地には行けない。どうしよう。ほかの2人は「やじろべえ」よろしく渡り初め、何とか向こう岸に。私の番だ。戦場で深さ2メートルくらいの急流に架かる丸太を「やじろべえ」型で渡り始めたが、目が回って落ちて流されたという嫌な思い出があるだけにビビッたが、仲間に冷やかされながらも何とか渡り終えた。やれやれである。
赤道直下、米軍との生命をかけたマーカス岬の戦闘。空と地上からの猛砲爆撃、そして米戦車10台の侵攻。指揮官として、これらと勇敢に闘い奇跡的に生命を保った私。その時は、不思儀と恐怖心など微塵もなかった。当時は「戦死は何時でも」と「開き直った」から度胸もあった。それがどうであろう。条件、状況こそ違え、この体たらく。
今も、世界各地から地震、火災、強盗などの報道が続々と届く。被災者、被害者の心情は計り知れない。心からお悔やみ申しあげたい。避けられない天災はさて置き、「戦争」という愚かなことは、この世からなくしたいと思う。が、人間の浅ましさ。「恐怖心」は、またどこかで人間を悲しませるのであろうか。
お隣り宅から、又、今朝もウグイスの綺麗な声が聞こえる。以前にも書いたが、代々子孫が定住したのは、庭が広く外敵がいないので住みよいからだと思う。鳴き始めは「ホーホーホー」であるが、やがて「ホーホーケキョケキョ」となり、きちんと「ホーホケキョ」となるには結構日数がかかる。人間の赤ん坊と同じだ。時々、わが家の庭にも来て鳴くが、殆ど姿をみせないうちに飛んで行ってしまう。
ツバメは、人家の軒先などに巣を造ることで親しまれ、愛される。「カッコウ カッコウ」と鳴く郭公(カッコウ)という鳥は、音楽のテーマや曲名として愛されはするが、托卵(たくらん)という性質はいただけない。自分で巣を作らず、他の鳥が作った巣にある卵を放り出して、自分の卵を温めさせるという身勝手なものである。高い木のテッペンに止まって自分の存在感を示すかのように「テッペンカケタカ」と聞こえるような鳴き声は、郭公の仲間のホトトギスで、この鳥も托卵する。人間にも身勝手な人が結構いるが、鳥にも性格によって、愛されるものと嫌われるものがあるようだ。
付記:ウグイスの写真をリンクします
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